治部れんげさんが推薦しておられた映画「少女は自転車にのって」を見てきました。
「少女は自転車にのって」公式サイト
女性が抑圧されており参政権もないサウジアラビアで、10歳の女の子ワジダが自転車に乗りたいと望み(学校でも家庭でも、女の子が自転車に乗ることは禁止されています)、ついにその希望を叶える物語です。
私は、元気な女の子と母親(高校生のときに結婚したと言っていましたから、まだ30歳前後でしょう)が家の中で繰り広げる会話の一つ一つに、胸が締め付けられるような気がしました。社会の慣習や因習を背負っている母親と、それを打破しようとする娘の間に、人間どうしとしての交流が成り立つなんて。
私自身は、とにもかくにも娘を抑圧し、支配しようとする母親しか知りません。母親と娘の間に、時に対立がありつつも平和な交流がありうる状況を、自分自身のこととしては知りません。私の母親は、私に対して抑圧し支配する存在であったことについて、
「昔はそれが当たり前やったから」
と正当化しています。
私は映画の前半、とてもつらい思いで、会話するワジダと母親を見ていました。
ワジダの父親は、第二夫人を迎えようとしています。男の子が欲しいというワジダの父方祖母の希望を入れての話です。母親は、第二夫人がやってくることに抵抗し、イヤだとはっきり言い、怒ります。その姿は、
「抑圧されているイスラム圏の女性」
という感じではありません。
ワジダの母親は、働くことを勧める妹に当初は難色を示します。夫の好む長い髪、自らの美しさを際立たせる赤いドレスなどで、夫を引き留めようとします。しかし結局は、第二夫人を迎える夫と決別し、長い髪を切り、働いてワジダと二人で生きていくことを選択します(夫と別れることについては、「パパが決めたの」と言っていますが、「なんとか関係を維持しようとする父親と、その父親をもはや相手にしようともしない母親」とも取れる場面があります)。
そしてラストで、ワジダを抱きしめて「世界一幸せになって」と語りかける母親。母親には、
「自分の望むような娘になってくれたら、自分が傷つかない範囲で幸せになることを許してやってもいい」
というような、「条件付きの愛」は全く見受けられません。感動的な場面でした。
私には、母親の変化と解放をもたらす導きの糸として、ワジダと自転車のストーリーがあるかのようにも見えました。
慣習や因習の中で育てられ、その世界の中にいてさえ、変わることのできる賢明で柔軟な女性。その賢明さや柔軟さが家庭の中だけではなく、社会で役立つ可能性。娘が自分の夢に向かって歩いて行くことが、その可能性を母親に少しずつ気づかせていく。そして母親は、その可能性に向かって羽ばたき始める……。
優れた映画は、数多くの側面を持っているものです。社会や世界に存在する背景や構造までが描き込まれているからです。
私は、「少女は自転車にのって」を、母親の解放の物語として見ました。そして、この母娘の未来が輝かしいものであるようにと祈るような気持ちになって、 映画館を出ました。
「少女は自転車にのって」、ほとんどの地域で上映終了となっていますが、 これから見ることのできる映画館も若干はあります。おすすめします。
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