私は20歳のとき(1984年)、福岡の実家を離れて東京の大学に進学し、日本育英会(当時)の奨学金を申請しようとしました。
とはいえ、私の実家は、経済的に困窮しているわけでもなんでもありませんでした。
当時、世帯収入には上限があり、 実家にはその上限以上の世帯収入がありました。
しかし私は、「うちにはお金がないんだから」というプレッシャに晒されつづけていました。
下に二人のきょうだいがいる上、私が大学進学する前年には父方祖母が83歳で亡くなっていました。
父方祖母は半年ほどのガン闘病の後に亡くなったのですが、「出来るだけのことをしたい」という父親の意思で、広い個室に入院していました。 そこは、父親の姉・父親の弟たちの妻・母親の間で、いわゆる「女の闘い」が繰り広げられる場でもありました(母親が私に語った)。広い病室でギスギスした人間関係に晒されていた父方祖母は、どれだけ居心地悪かったことだろうかと想像します。
父方祖母が最後に残したメッセージは、紙に書いた「早く眠り度い」というものでした。病気そのものの痛苦もあったでしょうけれども、自分の目の前で繰り広げられる自分の死後の話や争いごとの辛さもあったものと思われます。
少なくとも私の母親は、死期の近い人の前で本人の死後についての話をすることに対して、まったく抵抗のない人です。「葬式をどうしてほしいか」といったことを本人と率直に話し合うわけでも、死後の天国あるいは浄土での生活について本人に語りかけるわけでもありません。言葉を発することのできなくなった本人の前で、ああでもないこうでもないと、死後の儀式や自分の服装などについて話すのです。そこにいるのは、たいていは他の親類です。「ちょっと!」というような表情を浮かべたり、それとなく牽制したりはしますけれども、母親には通じません。その現場に、私は何回か居合わせました。私には、とても大きな抵抗の感じられる場面でした。ちなみに母親は、父親がそこにいると、そのような不謹慎というか無神経というか、な行為には及びませんでした。
また、父方祖母が亡くなるしばらく前、父親の意思で実家には大改装が行われました。
「広い玄関から棺を出してあげたい」
ということでした。父方祖母の使っていた部屋は存命中に片付けられてしまい、広い廊下と立派な玄関が作られました。そしてその玄関から、父方祖母の棺が出て行くことになりました。
私には
「これのどこが、おばあちゃんを大切にするということなんだろうか?」
という疑問が残りましたが、旧弊な福岡の家で長女に発言権はありません。何も言いませんでした。
いずれにしても、父方祖母の闘病と実家の改築で、数百万円単位、もしかすると一千万円以上の費用は吹っ飛んでいたと思われます。
実家は、困窮しているわけではなかったとはいえ、経済的に「充分なゆとりがある」という状態ではなかったことは事実でしょう。
だから私は、奨学金を申請することにしたのです。
自分が記入すべきところに記入した書類を、実家に返信用封筒とともに送りました。
数日後の朝、母親が電話してきました。その電話はアパート共同のピンク電話で、母親からの頻繁な電話はご近所さんの大迷惑となっていたのですが、今回は、その話はさておきます。
母親は
「今朝、お父さんが7時に起きて、一生懸命書いてやりんしゃったから。それを送ったから。ありがたく思わんと」
と言いました。そして
「ふふふふふ」
と含み笑いをしました。
私は理解に苦しみました。「一生懸命書く」が必要な欄はありません。奨学金を私が取得したら、実家からは私の大学進学にかかわる経済的不安が軽減されるはずです。「ありがたい」のは実家の側であるはずです。
届いた封筒を開けてみた私は、絶句しました。
申請書には、父親の達筆な文字で、実家のここ数年の経済的負担の大きかった事情と「なにとぞご配慮いただきたい」という内容が書かれていました。 本来の記入欄にも書かれていましたが、日本育英会や大学が利用するための欄まで、父親の記述で埋められていました。
父親は、80歳の現在も現役で産業カウンセラーなどの仕事をしています。自分の記入すべき欄がどこであるかも分からないような人ではありません。 私にはよくわからない理由で、父親は私に奨学金の利用をさせたくなく、その意志を申請書に示したものと思われます。
私は、大学の事務室に、その申請書を提出しました。父親に書き直しを依頼する時間はありませんでした。書類を確認した職員は、「え?」というような表情を浮かべていました。私は「すみません」と頭を下げました。一応は受理はしてもらえました。
私は大学生時代、日本育英会の奨学金を利用することはできませんでした。 実家の所得の状況が「良すぎた」ことに加え、申請書がそのような状態で提出されたら、まず見込みはないと考えざるをえませんでした。そして、私の予想したとおりになりました。
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。