3月から、ときどき「家族」タグで原家族との間のことを書いています。
断片的にはTwitter(以前使っていた@miwa_chan)や「はてなダイアリー」の拙ブログ に書いてきましたが、まとまった形で書くのは初めてです。
●書き始めたきっかけ
「今、書かなければ」という強い思いに駆られて、自動筆記マシン化したかのように書き始めました。
私には「ついに来るべき時が来た」という感覚がありました。
●あえて理由をつけると
「原家族との関係が、今後改善する見通しはまったくない」と確信できる出来事が、2013年~2014年にかけて相次いだことでしょうか。
大きなきっかけになったのは、2013年7月に「生活保護リアル」を出版したこと、2013年11月と12月に両親と接触したときのできごとです。
両親からはその後、年賀状も来なくなりました(父親が用事を頼みたい時には携帯メールが来ますけれども)。
両親が本格的に私を絶縁したり、それに先立って再起できない状態に叩きのめして反撃されないようにするための動きを始めた可能性を考えています。
両親は、愛してやまない弟妹とその5人の子どもたちに、万が一にも私からの反撃があってほしくはないでしょう。そのためには、絶縁では済まないはずです。絶縁するなら、その前に私を完全に叩きのめしておく必要があると思われます。社会的に抹殺するか、あるいは社会的に抹殺するだけではなく……。
思い過ごしかもしれませんが、最悪に備えておいて悪いわけはありません。
現在50歳~60歳の女子、焼け跡闇市世代を親に持つ女子にとって、親、特に父親とは、しばしばそのような存在です。似たような話を何人から聞いたことでしょうか。
●書いた直後
まず、「これで自分は生きていけなくなるんだろう」と思いました。
両親の望みは、私をせめて社会的に葬り去ることであるのかもしれません。私は両親が自分にしたことを書くことによって、両親や弟妹たちに格好の攻撃の根拠を与えてしまうことになったのかもしれません。
その時期、年度末+2月の米国行き(AAAS年会参加)+大学院の学費支払いなどで、私の懐具合は大変厳しいことになっていました。なぜか私の預金残高や私の購買行動に詳しい父親は、もしかすると、それを見てほくそ笑んでいたかもしれません。父親がどこからそのような情報を得ているのかは知りませんが、父親がなぜか私のプライベートに詳しい状況は1998年ごろから延々と続いています。いつになったら終わるんでしょう。私が死ななくては終わらないのでしょうか。気持ち悪いです。
「即刻終わって欲しい、そのためには自分が死ぬしかないのか」
と、私は1998年ごろからずっと思い続けています。
どういうルートから情報を得ているのかはともかく、私のプライベートに詳しい父親は、私が「なかったことにしない」という態度を明確にすれば、おそらく全力をもって私を葬り去るための方策を練るであろうと確信できます。そのために、父親が得ている私のプライベートな情報は、大いに有効でしょう。
しかし、私には不思議な安堵感がありました。
「これで終わった」
という。
書いてしまった以上、あとは絶大な力を持つ父親やその味方たちに叩き潰されるのは時間の問題でしかないでしょう。
夜、私は眠りにつきながら、二匹の猫たち、もうすぐ17歳の摩耶・もうすぐ6歳の瑠のことを考えました。とにかく摩耶の寿命までは逃げ切り、その間に瑠を誰か信頼できる人に託せば、私は大きな後悔を残さず死ぬことができます。自分自身が安全になって寿命まで生き延びることは絶望的ですが、猫たちだけなら何とかなりそう。そのことに深い安心を覚えて、気持よく眠りました。
●書いてしまってからの変化
ところがその後、私には「潰される」どころではない大きな変化が起こりました。
原家族での辛い出来事、脳に刻印であるかのように刻まれた両親や弟妹の言葉の数々が、突如、どうでもよい小さなことに感じられるようになったのです。
それは、気持ちのよい変化ではありませんでした。大きな恐怖と不安を伴う変化でした。私は自分の基盤を失いつつあるかのように感じました。
もちろん、父親が私に対して、何らかの経済制裁を計画しはじめた可能性はあります。といいますか、それはもう2008年ごろから始まっているようです(父親の言動による)。それが本格化するだけでしょう。私を失意と絶望のうちに叩き潰すためには、真綿で首を絞める拷問のような経済制裁が一番ですから。しかし、私が感じた恐怖と不安は、その経済制裁に対するものではありませんでした。
具体的な経済制裁に対する対策は、具体的かつ現実的に行う必要があります。都営住宅や生活保護の利用を視野に入れるならば、父親が何を企んで実行しようとも、おそらく私は生き延びることくらいはできます(その場合、「生活が厳しい」以上に苦しまされることになるような攻撃を、さらに両親や弟妹から受けたりしないように、万全の対策が必要ですが)。
想定される経済制裁に対する「傾向と対策」は、昨年11月から弁護士などにも相談して、具体的に練ってあります。あとは。何かあったら、
「こうなったら、こうする」
を一つ一つ実行するのみ。
私は、恐怖と不安を覚えるたびに、脳内で何回も、「傾向と対策」のシミュレーションをしました。それは、ただただ、「こうなったら、こうする」と「その場合の落とし所は」の連続のみです。
それでも、恐怖と不安は去りませんでした。
私の感じていた恐怖と不安は、経済不安に対するおそれではありません。よくも悪くも私を形作っていた原家族での辛い経験が、自分のすべてを支配する大きな存在から、ごくごく小さな存在に変わっていったことによっていたからです。それは未経験のことでした。傾向と対策を、どこかで読んだことがあるというわけでもありませんでした。どこかに書いてあるとも思えませんが。
そうこうするうちに、3月30日、大学院生活が始まりました(3月30日に編入生のガイダンスがありました)。
私は、両親が大学院に手を回して、私が学業を続けられない状況に陥らせようとしている可能性を考えていました。筑波大のとき、その可能性を考えざるを得ない状況がありましたから。
ところが、大学院の先生方には、そのような気配も感じられませんでした。
私は
「最初だからじゃないのかな」
と疑いました。
でも、さまざまな機会に教職員の方々と接しているうちに、
「少なくともこの研究科では、もし両親が何らかのルートで私を潰すように依頼したとしても、応じることはないだろう」
と信じられるようになってきました。
その時も
「いやいや、私が東京の住まいを離れて関西にいるから、したがって両親は(おそらく)私の居所を知らないから、そんな錯覚を感じているだけじゃないのかな」
と自分に言い聞かせていました。
関西に滞在している間、不思議な夢を3回ほど見ました。
母親が私に対して呪いの言葉を吐きつつ、私の身体のどこかにしがみつこうとします。すると母親は、とても強い力で後ろ側から脚を引っ張られ、転倒します。転倒した母親は、なお、私の脚をつかもうとしますが、母親は後ろから脚を強く引っ張られているので手は届きません。「アンタなんか何をしても何にもならん」「親への裏切り」などと、私に向かって何百回も直接投げつけた呪いの言葉を吐きつつ、母親はズルズルと脚を引っ張られて私から離れていきます。
私は脂汗をかいて目を覚まし、夢であることに安堵しました。母親が私にしたことが何であっても、「私のせいで母親が不幸になる」は、やはり私にとっても、決して愉快なことではないのです。
東京に帰っても、
「立命館の先端研の教職員の方々は、親と院生が対立していたら、基本的には院生の味方であると信じてよいのではないか」
という感覚は去りませんでした(願わくは、私の学位取得まで、その信頼が裏切られませんように)。
気が付くと、頭のなかでガンガン鳴り響き続けていた母親の声や目の前に見えていた表情、ずっと感じられて続けていた父親の表情や身体の重さや体臭や、私の身体のどこかを掴んだときの強い力が、
「思い出そうとすれば『そんなこともあった』と思い出せるけれども、否応なく、突然思い出されることはない」
という状態になっていました。
20歳で実家を離れてから、30年目のことでした。
●その後
両親、特に父親が次に何か攻撃を開始するとしたら、私の東京の住まいのご近所さん関係でしょうか。なんとなく、ご近所さんの私を見る表情がぎこちなくなったのを感じます。気のせいだといいのですが。
ただ、あまり深くは気にしていません。もし父親がご近所さんに私に関するネガティブ情報の収集や何らかの攻撃を依頼したとしても、この地域に15年住み続けている私との関係を悪くするメリットは、ご近所さんにはほとんどありません。そうではないご近所さんも、いることはいますけれども、現実にどれだけの力を持てるかというと疑問です。
もしそのような問題が発生した場合にどうするかについては、既に「こうなったら、こうする」のプランをいくつか立てています。それを実行するのみです。
あまりにも甘い予想でしょうか? もっと直截な経済制裁が行われるのでしょうか? もちろん、そうであるとしても、両親は自分たちと長男である弟だけは火の粉をかぶらないように、誰か他の人、それも私がなるべく反撃しづらい相手を直接の攻撃者とする形で、ヤワヤワネトネトジメジメと私を潰しにかかってくるのだろうと思いますが。これは思い過ごしではなく、過去そういうパターンが何度も繰り返されたことから私が「学習」しているのです。
とりあえず本日、2014年4月8日現在は、何も表面化していません。
いつまで「何も表面化していない」といえるかは分かりません。相手あること、なんといっても相手は両親ですから、油断はできません。常に最悪に備える必要があります。
しかし、両親対策にあまりにも時間やエネルギーを割かなくてはならないようでは、それはそれで結果として自分が経済制裁されるのと同じことになってしまいますから、協力してくださる方々に協力をいただきながら、自分と家族と自分の人生を守りつつ、なるべく前に進んでいくしかありません。
今は、
「実家を離れてから30年もかかったけど、自分の感覚と能力を信じて、自分の人生を生きていけるようになりそうだから、ま、いいか」
と思えています。
●念のため
母方祖父(故人)はアマチュアのヴァイオリン弾きでした。正式に譲られたというわけではありませんが(母方祖父は私が生まれる前に他界しています)、いろんな経緯の末、母方祖父の愛器であったヴァイオリンは私の手元にあります。母親が保有していた別の親戚(ヴァイオリンを弾く人)から取り上げて実家に持ってきたのは、1980年ごろでした。母親がその人からヴァイオリンを取り上げるにあたって理由にしたのは「ヨシコが弾きたいと言っている」でした。私は確かに弾いてみたいと言いましたが、実家周辺には、楽器に関する充分な知識のある人がいませんでした。たとえば松脂。母方祖父が昭和30年ごろ亡くなる直前に使っていたと思われる松脂が、楽器とともにやって来ました。でもヴァイオリン用の松脂って、時間が経つと固まって使い物にならなくなるんです。私はその松脂を弓の毛に懸命に塗りましたが、音は出せませんでした。当たり前です。
その楽器が、東京にいた私の手元に来たのは1991年です。1980年から1991年まで、楽器は温度変化が激しくジメジメする実家の押入れの中に置きっぱなしにされていました。弦を張ったらテールピースが割れ、響板もあちこち剥がれかけているという状態でした。
その放置されて酷い状態だった楽器を復活させ、弾けるときには弾いて音を出してやり(ヴァイオリンは弾いて音を出してやらないと、「自分が楽器であったことを忘れてしまう」といいますか、楽器としての性能が落ちてきてしまいます)、弾けないときにも定期的に楽器工房でメンテナンスを行い、湿気や虫などへの対策を行い……ということを、私は23年間続けてきました。
しかし、妹の長男(確か2003年生)がヴァイオリンを習い始めたころから、母親は私に何度も、その楽器を
「Y(妹の長男)にやりい!(よこしなさい)」
と命じたり、存命中だった認知症の母方祖母を理由に、
「おばあちゃん(母方祖母)の横に置いてやりたいから、ちょっと宅急便で送っちゃりい(送りなさい)」
と言ってきたり、
「お父さんの思い出の楽器だから、ちょっと触りたい」
と言ったりなどしています。
「Y(妹の長男)にやりい!」
には、
「Yちゃんはまだ大人用の楽器を弾ける年齢ではないでしょう?」
と答えました。妹の長男はまだ4歳か5歳でしたから。
次に
「おばあちゃんの横に置いてやりたいから、ちょっと宅急便で」
は、
「ちょっと宅急便で送れるようなものではないです」
と答えました。
「お父さんの思い出の楽器だから触りたい」
は、母親のホンネなのかもしれません。可能であれば私は、故人である母方祖父に、
「自分の楽器を長期放置しておいて、楽器として使い物にならない状態にした上に、復活させて長年面倒を見てくれた人に礼も言わず、良い状態で維持されている楽器を取り返そうとする貴方の娘さんを、どう思いますか?」
と聞いてみたいのですが。それに、過去の母親の言動を考えると、その「ちょっと触りたい」を許したら、私が永久に触れなくなりそうです。母親の「ちょっと触りたい」が本気であるとして、私が「実現してもいいか」と思ったとしても、私が後で悔しさや悲しさのあまり何度も泣くことにならないように万全の対策が必要です。
話を母親に戻します。母親は、そのヴァイオリンを妹の長男に与えたいんでしょう。私に「やりい!」と言い出したのは、妹の長男がヴァイオリンを習い始めてから後のことでしたから。妹の長男は、そろそろ大人用の楽器を弾ける年頃と思われます。でも、「ちょっと宅急便で」送れるようなものではないんです。それに母親は、酷い状態だった楽器を復活させて状態を維持するにあたって私が注ぎ込んだお金や時間やエネルギーは全く考慮していません。考慮したかに見える言葉さえ、今のところ一度も発していません(これから母親がそういう言葉を発しても、もはや心からのものと信じるわけにはいきませんが)。
私自身、現在50歳となっています。自分の寿命を超える長い寿命を持っている楽器を、自分の死後にどうするかについては考えざるを得ないところです。楽器の由来からいって、血縁の誰かでヴァイオリンを弾く人に渡ることが最も適切なのではないかとも考えるところです。他にもさまざまな可能性を考えます。母方祖父と友人たちが立ちあげたアマチュアオーケストラは、その後プロオケへと発展し、地域の文化にとって重要な存在となっています。その立ち上げの志を活かすことを考えたら、血縁者ではない方がよいかもしれません。その楽器にとって最も幸せで、最初の所有者の志が最も生きる方法は何なのでしょうか? 貴重な楽器を預かって面倒を見ている身として、40歳を過ぎたころから真剣に考えています。
でも、とにかく、母親の恣意によって、なあなあで、あるいは騙されて、あるいは脅されたりすかされたりして半ば強制されて手放すことを強いられ、母親の望む誰かに渡さざるを得なくなる成り行きだけは避けたいのです。ああまだ他にも考えられるパターンはありますね。甥たちにおねだりさせるとか。それは最高にイヤななりゆきです。子どもはそのように利用されるべきではありません。
母親はこのヴァイオリンについて「自分のものである」と主張したことは過去に一度もありません。「自分の」楽器だから返してほしいというのなら、まだ理解できるのですが。
いずれにしても、私は、そこまで軽く扱われ、そこまで馬鹿にされてよい人間ではないと思います。
このヴァイオリンに関しても、弁護士さん等と相談のうえ、「傾向と対策」は立ててあります。
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