STAP細胞問題では、一時期、
「中心となった研究者が素晴らしい実験テクニックを持っているのではないか」
という意見が散見されました。 
2002年に問題となったシェーン事件でも、当初、中心となった研究者の素晴らしい実験装置・素晴らしい実験テクニックによって成し遂げられた成功である可能性が取り沙汰されました。
Wikipedia:ヘンドリック・シェーン 

私は、実験における個人的テクニックの重要性を否定するつもりはないのですが、
「特別な実験テクニックを持った個人だから成し遂げられた」 
という物語に対しては懐疑的です。
実験テクニックでなくとも、「特別な個人だからできた」 と見ることに対して問題を感じるのですが。

かくいう自分、20代前半のころ、化合物半導体の分野で、
「これが出来る日本で2人のうち1人」
だったことがあります。
当時の私は、研究所の実験テクニシャンをやっていました。
実体顕微鏡を覗いて、手にカミソリの刃を持ち、目視で 0.25 mm × 0.25 mm × 0.1 mm というサイズにレーザダイオードを切り出す、という技の持ち主でした。目も良かったし、手先が抜群に器用でした。ちなみに、「日本に2人」のもうお1人、当時、日立中央研究所にいらした女性は、しばらく後に結婚退職したと聞いています。私は日本で1人になりました。

それは大変危険な状態です。
日本に何人もいないスーパーテクニックの持ち主である器用な個人に、研究が分野まるごと依存することになるわけです。
そして、そういう個人を雇用できない場では研究ができないわけです。

私が「日本で1人」になったころから、そのスキルを補うちょっとした装置や道具の工夫が数多く行われるようになりました。当時の「応用物理」誌の「技術ノート」(だったかな)というコーナーに、よく掲載されていたのを記憶しています。
その翌年ごろから、その手のスーパーテクニックは「お呼びでなく」なりました。装置や道具に置き換えられてしまったからです。

個人のスーパーテクニックに依存する状態は、長く続きませんし、長く続くべきでもありません。
もちろん、実験スーパーテクニックを持つ研究者やテクニシャンは数多く存在しますし、そういう人々による研究も存在します。しかしそれらは、そういう力量を持つ人を育成するシステム・長期に活動させつづけるシステム……というものがあって出てくるタイプの研究です。30歳にも達しない実験の天才がが「ぽっと」現れて超絶的な研究成果を上げるということは、あまり考えられません。
30歳未満の人の研究が、その人個人の持つ特殊な何かに依存して成立しているという状況は、それ自体がかなり不自然です。 
研究の現場の経験があれば、
「あの研究者の個人的な実験スキルが卓越していたので成し遂げられたんじゃないか?」
説は、「瞬間的に眉唾」ものであろうと思います、が……。

今回のSTAP細胞の一件で、そういう意見を科学界からあまり見かけなかったこと、非常に不思議でした。