母親は50歳半ばに達した頃から、自分が将来、介護を受けられるかどうかを心配し始めました。私が30歳に達しようとするころです。それまでの「結婚! 結婚!」というプレッシャが「孫! 介護! 孫! 介護!」となったのでした。
三世代同居環境で育った私は、高齢者を家族で介護することそのものには、特に抵抗は持っていませんでした。
東京で就職していた30歳前後の私は、数ヶ月に一度、母親からの電話で困らされていました。
「ヨシコぉ? お母さんやけど」
で始まるその電話は、何時間後に終わるか分からないのです。用事があるので切ろうとすると、
「お母さんがせっかく話してやっているのに!」
とか
「親をないがしろにする!」
などと母親が荒れるのです。
そして2時間後か3時間後、電話の向こうでドアの開く音がします。そうすると、母親は
「あ、お父さんが(弟が)帰ってきたから」
といって電話を切るのでした。
その数時間の電話は、ほぼ一方的に母親が話し続けるだけでした。内容は、ご近所や親類の噂話がほとんどだったかと思います。誰がどこの高校に行ったとか、誰がどこに就職したとか、誰が結婚して相手はどういう人だとか。私が生返事していると、母親は
「大事なことなのに!」
と荒れるのでした。
30歳を過ぎた頃からの私は、興味のない話を延々と聞かされることだけではなく、話がいつ私への攻撃となるかビクビクしていました。たとえば
「高校の同級生の◯さんに孫ができた」
という話は
「アンタはなんで、親に孫を見せてやりたいと思わないんだ」
という攻撃に発展するんです。
こちらの方は、仕事が大変でそれどころじゃなかったのに。子どもは欲しかったけれども、子どもを持つことが可能な仕事の状況を整えることに悪戦苦闘していたのに。それは伝えようと努力しました。しかし、私が仕事の話をはじめると
「それは分からないから」
と言われ、「孫!」というプレッシャへと続くのでした。
母親が55歳ごろになると、さらに母親自身の将来の介護の確保の話が加わりました。当時、母親が言っていたのは
「娘と同居するのが一番だとみんな言っているけど、ウチは長女が家を出て好き勝手していて同居などできそうにない。自分は姥捨てされようとしている」
というようなことでした。
私は前述のとおり、親世代の介護に特に抵抗感はなかったのですが、自分自身の意志や考えを無視して介護を強制されることはイヤでした。なんといっても私は3人きょうだいです。3人もきょうだいがいて、なぜ「長女だから」とか、ましてや「姥捨て」とかいう話になるのか、理解できません。
私は
「きょうだいで話し合いをして、どうすれば親世代を支えられるかを相談すれば、3人もいるんだから何とかなると思う」
というようなことを言いました。それは本音でした。母親を安心させるためのトークではなくて。すると母親は、
「いや、H(弟)が中心になるべきだ。Hは長男なんだから、ヨシコはHのいうことを聞いて自分の介護をしなくては」
というのでした。
私はこの瞬間に、「両親を介護することは私にはできない」と判断しました。なぜ私が、弟の手足にされなくてはならないのでしょうか。弟は「長男だから」という理由で、幼少時からさまざまな特別扱いを受けています。家事の免除とか。そのことは介護に当たっては考慮されないのでしょうか?
いずれにしても、
「母親がそういう心づもりでいるのであれば、きょうだいで話しあったり相談したりすることは無理だろう」
と私は判断しました。「話し合い」という名の結論の伝達ならば、行われるかもしれませんが、伝達されるのは私が「自分にとって不利である」と感じない結論ではないでしょう。きょうだい間の公平な負担を目指した冷静な話し合いや相談など、まったく期待できないと思われます。そもそも当時すでに、4歳下の弟とも9歳下の妹とも、会話ができる関係ではなくなっていました。平和な会話とか剣呑な会話とかいう以前に、会話そのものが出来ない感じです。弟と1分以上の会話をした最後は、たぶん私が19歳で弟が高校生くらいの時。妹との最後の会話は、2005年ごろです。
私はこの時に、自分に両親の介護はできないと判断しました。1995年ごろのことであったと記憶しています。
<後記>
「なぜ留守電を使わなかったんだ?」という疑問を持たれそうなので、補足しておきます。
実は母親の電話攻撃に耐えかねて、留守番電話を導入したことがありました。大学3年のときです。表向きの理由は就活でした。 国家公務員試験(2種)に合格していましたから。マイクロカセットテープ使用の留守番電話機で、4万円くらいした記憶があります。ナンバーディスプレイは、当時まだありませんでした。
ところが母親は、
「留守番電話の応答メッセージが感じ悪い」
と言って、留守番電話機を使用しないように執拗に求めてきたのです。「自分のかけた電話に出てもらえなくなるかもしれない」という危機感もあったのかもしれません。
それで1997年まで、我が家に留守番電話機はなかったり、あっても自動応答機能を使うことができなかったりでした。
大学4年のとき、大学院受験直前の2ヶ月ほど、毎日のように母親から電話がありました。内容は
「お父さんが◯◯(社名)へ就職したらどうかと言っている」
というもので、「◯◯」は日替わりでした。本当に父親がそう言っていたのかどうかは分かりません。はっきりしているのは、母親の勧めを連日、
「もう国家公務員試験にも合格しているし、現職継続(勤労学生でしたので)という選択もできる、だから他の就職先は必要ない」
と断らなくてはならなかったということです。毎日、毎日。
もちろん母親は、私が進学を希望していることは知っていました。「なのに」でしょうか。「だから」でしょうか。毎日毎日、
「お父さんが◯◯に就職したらどうかと言っている」
という電話の相手をしなくてはならなかったのです。短くて1時間、長ければ3時間ほど。
私が
「お母さんも知っているとおり、大学院受験がもうすぐで、こんど試験だから」
というと、母親は
「お父さんがせっかく言ってくれているのに聞けないの!」
と荒れ狂うのでした。
ちなみに進学が決まると、母親からの就職を勧める電話は、ピタリとかかってこなくなりました。
母親の電話の目的は、おそらくは受験の妨害であったと思われます。母親の一連の行動に、それ以外の背景を考えることは困難です。ちなみに大学受験のときは、妨害は電話でなくリアルで行われました。
1997年、ちかぢか勤務先を辞めてライターになろうと考えていた私は、FAXつき留守番電話を導入しました。母親からは、特に文句を言われることはありませんでした。前後してナンバー・ディスプレイが普及し始めました。それでやっと私は、母親の電話から解放されたのでした。
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