みわよしこのなんでもブログ

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ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。

[特設]山口雄也『「がんになって良かった」と言いたい』抜き書きと感想(8/n)


白血病との闘いを続けている京大大学院生・山口雄也さん(Twitter: @Yuya__Yamaguchi)のご著書、『「がんになって良かった」と言いたい』から抜き書きして、自分のメモを記すシリーズの7回目です。
 私は Amazon Kindle 版を購入しましたが、紙の書籍もあります。





(2017. 4. 24)


 この節は、伊勢物語に出てくる詠み人知らずの短歌の引用から始まります。そして、桜の美しさと生と死をめぐる逡巡と思索が、交錯するさまざまな感情とともに、繊細かつリズミカルな文章で語られます。


散ればこそ いとど桜はめでたけれ
憂き世になにか 久しかるべき


 がんの手術を終えた山口さんは、まだ退院できずにいたものの、がんは寛解していました。そして振り返るのは、「強いね」「治ってよかったね」といった他者の言葉に対する自分の心の動きです。


強がることには昔から長けていたから、そうしていただけだった。
(引用者注:がん告知に平気な顔をしていたのは)見栄だけは一人前だった。
そのうちにどれが自分の感情なのかを見失ってしまった。
もう笑っているのか口を結んでいるのか。泣いているのか怒っているのか。
果たしてどれが自分の感情が創り出した表情なのか分からなくなってしまった。
コミュニケーションの潤滑油として、ありもしないところから無理に表情を引っ張ってくる。
生ぬるい無造作な皺が、心との温度差を生じる。

 いちいち、身に覚えがあります。私自身が「障害者界」に閉じ込められてしまってから数年間の経験として。山口さんと同じ「がん患者界」に閉じ込められたわけじゃないのに、なぜ経験に共通点が感じられるのでしょうか。

 障害者も、その時点でのがん患者も、他者たちに何となく「こうあるべき」と定められてしまう存在です。定めるのは、障害をもたない人々、あるいは、その時点ではがん患者ではない人々です。
 障害者は、日本の全人口の10%に満たない少数派です。先進諸国と比べて異様に少ない理由は、日本の障害認定が異様に厳しいことにあります。
 日本人の約50%は生涯の中で1度はがんを経験し、約25%はがんで亡くなります。しかし「その時点でのがん患者」、特に若年のがん患者は、少数派であるはずです。国立がん研究センターの最新がん統計によれば、10代あるいは20代でのがん罹患率は0.5%未満と見てよさそうです。同世代の中では、障害者よりもさらに1桁少ないことになります。
 人口比で50%、せめて30%なら、その人と同じ側にいない50%あるいは70%が何を言おうが、ただちに「数の暴力」という種類の政治力が発揮されるわけではありません。しかし、10%未満の障害者、そして同年代では1%未満の10代・20代のがん患者に対しては、「90%以上」「99%以上」の数の暴力が否応なく降り注ぎます。各人に「暴力」のつもりが全くないとしても、「私の考える障害者像とは」「僕の考えるがん患者像とは」というものが存在するだけで、数の暴力になってしまいます。では、マジョリティは何も知らなければよいのでしょうか? それはそれで、無知ゆえに善意をもって相手をすり潰してしまい居ないのと同然にするという、さらにタチの悪い暴力となってしまいます。

 解決方法? ありませんよ。だって、数の不均衡を是正する方法がないんですから。もしも是正できたら、その時には「みんな障害者」「みんな、がん患者」です。それは、やはり望ましいことではないだろうと思います。「現在の健常者は、将来の中途障害者」「がんを経験していない人の半分は、将来のがん患者」とは言えるかもしれません。「わがことになるかも」という想像力は、少しだけ状況を変えるかもしれません。でも想像上の「将来のわがこと」は、別の誰かの「現在のわがこと」とは、やはり似て非なるものです。「想像できるから、私はあなたの理解者になれるはず」なんて言われた日には、ぶん殴(以下自粛)。

 ハンデを持つマイノリティが、ハンデを持ったマイノリティであるままで尊重されることを、「多様性の尊重」「ダイバーシティ」と言います。しかし、マジョリティによる多様性の尊重やダイバーシティ推進の程度を、誰が評価するのでしょうか? マジョリティに任せておくと、「自分たちは充分によくやっています。少しは反省すべき点もありますが」という評価にしかなりません。マジョリティが「マイノリティの声を聞く」という姿勢を見せることもありますが、人選や聞き方をマジョリティにまかせておくと、自分たちに都合のよい声しか聞かれません。マイノリティの中には「この政治を利用して自分の地位を確保したい」という動きが必ず現れます。すると、マイノリティは結果として分断されたり、あるいは出世した少数のマイノリティに支配されたりすることになります。たいへん具合悪い状況ですが、マイノリティである各個人の誰かがそういう選択をすること自体は、一概に否定できないように思えます。マイノリティの誰か1人が、権力や地位や達成に関する欲望を抱き、実現しようとするとき、誰が「あなたはマイノリティだから、そんなことを考えてはいけない」と言えますか? それはそれで人権侵害です。放っておくとマイノリティ全体の人権侵害に及びかねないという問題はありますが、だからといって、誰が「全体のために、あなた個人は犠牲になれ」と言えるでしょうか? 
 まことに面倒くさいのですが、この面倒くささは、障害ある学生や障害ある職業人として変化の中を生きている人々、障害がない時期に何者かとなった後に障害者となった人々につきまとう宿命です。障害者の社会参画に関して先進的と見られている西欧や北欧や米国にも、形を変えて存在します。よりマシだと思える「面倒くさい」を選ぶことはできても、自由になることは無理そうです。

 大学院生(大学生)として学業と研究の世界にも生きている山口さんは、がん患者ではない大学院生(大学生)だから求められることと、がん患者である現実の自分、そして2つの自分を取り巻く社会との間で、人知れず苦しまれたことが多々あるだろうと拝察します。それは、障害者であり現実にハンデを負っている人々が、福祉的ではない職業に就いてパフォーマンスを求められたり挙げたりしている場合に直面する困難そのものでもあります。

 5年後、10年後。山口さんと同じように苦しむ若年のがん患者、障害者、その他マイノリティが、少しでも減っていればいいと望みます。マジョリティの”苦しめ方”がもう少しマシになっていればいいと願います。今すぐには無理でしょう。だけど、少しずつ。

 さて、この節のタイトルは「桜」です。山口さんの状況は、死を意識しなくてもよいタイプの健康な障害者とは異なっていました。

五年以内に死ぬだろうと思って生きることの恐怖と失望とは、あなたには決して分からない。なぜなら自分にもさっぱり分からなかったからだ。
背水を気にせずどう生きろというのか。

 そして山口さんは、自分が感じている怖れと悲哀を、丁寧に腑分けしていきます。

万物無常、早かれ遅かれいつかはサヨウナラ。じゃあ悲哀の対象はというと、”存在がなくなること”ではなくて、むしろ”忘れられること”だった気がする。

 昔から、「人は二度死ぬ」と言われてきました。一度目は肉体的な死。二度目は、その人を知っている人が全員いなくなるという意味での死。2021年現在、Web空間に残した情報は永久に残る可能性があり、「忘れられる権利」が問題になっています。でも、Web空間に自分の残した情報が残りつづけていても、参照されなくなれば、発見されるまでは無と同じ。情報が埋もれるスピードが速くなるのとともに、二度目の死が早く訪れるようになるのかもしれません。

あなたに会えないことよりも、あなたに忘れられることの方が恐ろしい。生きたことが忘れられたとき、「わたし」はその人にとって存在しなかったことになる。その人を忘れた時、あなたは無意識にその人を殺している。

 このフレーズには、個人的な気づきがありました。
 私の母親は、私が物心ついたころから「親をないがしろにする」と怒り続けていました。2000年を過ぎてからは、通算で3時間も会話していないはずですが、たぶん現在もそうなのでしょう。私は積極的に母親を「ないがしろ」にしたかったわけではありませんが、何をすれば「ないがしろ」にしなかったことになるのか、全く見当がつきませんでした。母親の「自分をないがしろにされたくない」という思いが、死や忘却に対する母親自身の何らかの感情と結びついていたのであれば、幼少だった私、そして成人して現在に至っている私には、どうしようもなかったことになります。もう、そういうことにして、母親が自分にとって何であったかという問題を少しずつ棚上げし、自分の責任の及ばない問題ということにして、そして自分の問題としては終わらせてしまおうと思います。息子でもおかしくない年齢の山口さんが書かれた文章に、長年の親との問題の個人的な解決を少し助けてもらいました。ありがとう。

 ともあれ山口さんは、いずれ自分が忘れられ、存在しなかったことになり、無意識のうちに誰かに殺されるかもしれない運命を心に抱え直しつつ、桜をめぐって生命への思索を続けます。

雨にも負けて、風にも負けて、そうして一瞬のうちに散りゆくから、生命は美しい。
死こそが生命を生命たらせ、そうして平等にする。
残酷さが、美しさを創り上げる。
今年も、美しい桜が忘れられていく。
散ればこそ、めでたけれ。

 ぱっと咲いてぱっと散るのは、ソメイヨシノ系の桜の特徴です。ソメイヨシノは江戸時代以後の品種で、伊勢物語の時代には「それそのもの」はなかったはずですけれど。
 他にも、たくさんの桜があります。散り急がない桜もあります。そして私は、花の後の葉桜が、咲いた桜よりも好きなのです。

 山口さんが、来年の桜を見られますように。散るから美しい桜ではなく、咲き続けるから美しい桜の数々も見ることができますように。そして、今まで重ねられてきた思索の上に、さらに思索と自分の人生を重ねて行かれますように。

 ただ、祈ります。


山口雄也さんを応援する方法の例

 ご本人やご家族のために何かしたいというお気持ちを抱かれた方は、どうぞご無理ない形で応援をお願いします。ご家族を間接的に支えることも、ご本人への支えになります。
  • ツイッターで「いいね」やメンションによるメッセージを送る
  • ご著書を読んで、Amazonhonto読書メーターなどにレビューを書く
  • noteでご記事を読む・サポート(投げ銭)する・有料記事を購入する
  • 献血をして、献血センターがいかに素敵な場所であるかをSNS等で述べる(山口さんは、治療に大量の輸血を必要としています)
  • 献血できない人は、日赤などによる献血のお願いをSNS等で拡散する
  • 重い病気と闘病する人々やその家族の心境について、信頼おける書籍を読み、傷つけることなく支援する方法へと近づく



本記事を書いて推薦したくなったコンテンツ


 多数派の思い込みの世界に、あるいは政治的に強い力を持った存在の思うがままの世界の中に自動的に閉じ込められてしまう人々を、スピヴァクは「サバルタン」と名付けました。




 精神科医・中井久夫氏の著書『時のしずく』には、愛弟子の1人であった安克昌医師への追悼が収録されています。中井氏は阪神淡路大震災における精神医療の総指揮に当たり、安医師は最前線でケアにあたりました。リアルな生と死の重みに向きあった精神科医の1人が旅立ち、師であった精神科医が悼むという巡り合わせが生んだ追悼文。いずれはやってくる安医師の「二度目の死」への中井氏の怖れが胸に迫ります。



 なお安克昌医師は、NHKのドラマおよび映画『心の傷を癒やすということ』の主人公のモデルです。ご本人による同名のご著書もあります。余談ですが、私はNifty-Serveの心理学フォーラムで接点がありました。「自分の居場所」という言葉を含むお返事を、私は終生忘れそうにありません。私が生きている限り、あなたは死なないよ、安さん。



[特設]山口雄也『「がんになって良かった」と言いたい』抜き書きと感想(番外編その1)


 白血病との闘いを続けている京大大学院生・山口雄也さん(Twitter: @Yuya__Yamaguchi)のご著書、『「がんになって良かった」と言いたい』から抜き書きして自分のメモを記すシリーズを、7回にわたって続けてきました。
 本記事は番外編として、「なぜ、このシリーズを書いているのか」について述べます。

 当該のご著書はこちら ↓ です。
 私は Amazon Kindle 版を購入しましたが、紙の書籍もあります。




山口雄也さんの「僕の生きた証」とは?


 このシリーズを続けている理由は、一言で言えば「山口さんの生きた証を残すことに協力したい」ということです。山口さんはツイッターで「僕の生きた証を残したい」と語られています。

 山口さんの「生きた証」なら、十分に残っているはずです。ブログ記事、note記事、書籍、NHKの番組。そして卒論。なんといっても、山口さんを直接知る方がたくさんいて、その方々の多くは好意的です。「生きた証は、充分に残されている」と言える状態ではないでしょうか。

 24歳で闘病生活が6年目で、そういう状況にある方は、多くはないだろうと思います。若年で難病に捉えられてしまうと、自暴自棄になったり、やさぐれてしまったりすることもあります。いったん離れてしまった友人たちや壊れてしまった人間関係を取り戻せないまま、短い生涯の終わりを迎える人々も少なくありません。ご著書によれば、そういう瞬間は山口さんにもありましたが、幸いにも瞬間的なものに終わり、失ったものは少なかったようです。

 山口さんのツイートを見ると、「生きた証」という言葉に込められているものは、単にご自分が残すものではないように思えます。「大手書籍通販サイトや大手書評サイトに記されたレビューが増えてほしい」というツイートもありました。ご自分が残すものだけではなく、ご自分と社会とのつながりがあってこその「生きた証」なのでしょう。発信は反響あってこそ、なのでしょう。さすがSNS世代。

 よっしゃあ。プロライターとして、「生きた証」のためにプロの犯行で一肌脱ぐで!
 山口さんは、私の子どもでもおかしくない年齢です。インターネット環境に触れた時からSNSが当たり前だった世代に属しています。
 私は親世代(たぶん親御さんより年長)の者として、日本のインターネット萌芽期をリアルタイムで知っている者として、ささやかながら出来ることはしたいと思いました。

O.ヘンリー「最後の一葉」じゃないけれど

 山口さんは、これまでの闘病でも「死ぬかもしれないA」「死ぬかもしれないB」の二者択一を迫られてきました。2021年に入ると余命宣告を受け、「死ぬことは確実なので緩和治療」「1ヶ月後に生きている確率は低いけれども骨髄移植」の選択を迫られました。骨髄移植から2ヶ月後の現在も、非常に厳しい状況が続いています。

 このブログでは、ご著書から一節ずつ抜き書きして私の感想を綴っています。この調子では、向こう何日かかるのだか。「西荻窪の由緒正しい飲んだくれ不良中年」を標榜してきた私ですから、サボる日も出てくるでしょう。でも、ペースアップしたいとは思いません。

 O.ヘンリーの短編小説「最後の一葉」ではありませんが、私が抜き書きと感想を続けている限り、山口さんは大丈夫なのではないかと。根拠なんかありません。ただの思いこみです。「最後の一葉」のヒロインも、「窓から見える落葉樹の最後の一葉が落ちる時に自分は死ぬのだ」と思い込んでいた闘病中の患者でした。それだって根拠なかったんですよね。

 ご著書の末尾にたどり着くころ、山口さんはまだまだ闘病を続けていて、ジリジリとでも今よりも快方に向かっているのでは? 根拠はなく、ただの思いこみですが、そう思い込ませてください。

 いわば、願掛けのようなものなのです。

なにゆえアフィリエイト?

 このシリーズには、多数のアフィリエイトが埋め込まれています。山口さんのご著書、そして関連して推薦したい書籍やコミックなどのコンテンツ。フレームにデフォルトとして埋め込んでいる Google Adsense のリンクもあります。
「いちいち外すのが面倒くさい Google Adsense はともかく、なにゆえコンテンツにいちいちアフィリエイト?」
という疑問を持たれる方も少なくないかと思われます。

 理由はただ一つ。
 確実に読んでいただきたいから。読まれないまでも、触れていただきたいから。

 パソコンで読まれている方は、「当該コンテンツのページに飛んだ後でアフィリエイトだけ外して購入する」なんて朝飯前でしょう。それでもかまいません。アフィリエイトさえ貼っておけば、クリック数を私が確認できます。それは私自身の励みになります。「そのコンテンツの存在を知る方を増やすことはできた」というわけですし、クリック数も確認できますから。とにかく、リンクをたどっていただければ、当該コンテンツが何であるのかを知っていただけるわけです。

 紹介したコンテンツを知ってほしい。できれば読んでほしい。そして、山口さんや難病と闘う方々やご家族に、少しでも有効で害の少ない支援をしてほしい。間接的にでも。それが私の一番の願いです。

 なお、2021年5月16日現在、本シリーズによるアフィリエイト収入は0円です。「むしろスッキリ」と喜んでいます。他人さまの闘病で商売したいとは思いません。もっとも、結果として私に何らかの収益がもたらされるのであれば、私自身や家族(猫×2)のために使ったり寄付したりして、ポジティブなスパイラルを作ることに役立てることができます。そんなわけで、収入があればあったで喜ぶことでしょう。


山口雄也さんを応援する方法の例

 ご本人やご家族のために何かしたいというお気持ちを抱かれた方は、どうぞご無理ない形で応援をお願いします。ご家族を間接的に支えることも、ご本人への支えになります。
  • ツイッターで「いいね」やメンションによるメッセージを送る
  • ご著書を読んで、Amazonhonto読書メーターなどにレビューを書く
  • noteでご記事を読む・サポート(投げ銭)する・有料記事を購入する
  • 献血をして、献血センターがいかに素敵な場所であるかをSNS等で述べる(山口さんは、治療に大量の輸血を必要としています)
  • 献血できない方は、日赤などによる献血のお願いをSNS等で拡散する
  • 重い病気と闘病する人々やその家族の心境について、信頼おける書籍を読む

今日はコンテンツの推薦はしません

 今日は、本シリーズ記事のイメージ画像を設定することにします。設定していないと私のアイコンのコラージュが表示されてしまい、なんだか違和感があるもので。
 代わりに再度、Amazonの山口さんのご著書へのリンクを置いておきます。




[特設]山口雄也『「がんになって良かった」と言いたい』抜き書きと感想(7/n)


 白血病との闘いを続けている京大大学院生・山口雄也さん(Twitter: @Yuya__Yamaguchi)のご著書、『「がんになって良かった」と言いたい』から抜き書きして、自分のメモを記すシリーズの7回目です。
 私は Amazon Kindle 版を購入しましたが、紙の書籍もあります。




望み(2017. 3. 30)


 最初に見つかったがんの手術を終えた山口さんは、病棟で共通点の多い中年の男性患者と出会います。違いは、山口さんのがんは予後不良とはいえ治る可能性が高いものであり、男性が患っているタイプの膠原病は不知の病であるということでした。

 入院先の京大病院は、日本で肺移植を取り扱うことができる10施設のうち1つです。男性は35歳で、皮膚だけではなく血管や臓器が侵されていくタイプの膠原病に肺まで侵されました。

 男性が最後の望みを託したのは、脳死肺移植でした。肺移植のリスクは非常に高く、他のどの移植手術よりも術後生存率が低く、文字通り「必死」で臨むこととなります。手術室に入って麻酔を受けたら生きて戻ってこれないかもしれない移植手術の日は、前日に突然、電話でやってきます。しかし、男性は生き延びました。そして経過観察のための入院で、山口さんと出会い、手術が成功して妻と川べりを散歩した時のことを語りながら涙ぐみました。

どうして俺はこうやって生きていられるんだろう、そう思って泣き続けたという。

 山口さんと車の趣味が合う男性は、愛車の話題を振られた時、今は車の運転をしていないと答えました。薬を飲み続けている限り、運転できないからだそうです。

 しまった、と思った。職だけでなく、趣味さえも取り上げられてしまうのか。もしこれが自分だったら、何を楽しみに生きていいか分からなくなるかもしれない。


 しかし男性には、生きる希望がありました。当時4歳の息子です。息子が小学校に入り、中高生になり、成長していく様子を見ることです。その希望が叶う可能性は高くありません。病気は、少しずつ進行していました。

 人生とは、理不尽である。自ら命を断つ人もいれば、こうして生きたくても生きられない人もおり、あるいは何も考えずに生きている人もいる。彼の息子が僕と同じ年齢になったとき、果たして彼は生きているのだろうか。
 生きていてほしい。

 山口さんは、子の立場での経験から、次のように語ります。

 もし親をなくしたらここまで生きてこられなかっただろう。
 親にとっての生きる希望が子であるように、子にとってもまた、生きる希望は親なのである。

 このくだりは、引用していて胸にズキンとくるものがありました。
 貧困問題の取材をしていると、貧困と虐待は強く結びついているという事実を否応なく突きつけられます。搾取するために子どもを増やす親も、DVの結果として子だくさんになった父親も、いるところにはいます。その環境の中で育つ子どもたちは、家庭といえばその家庭。親といえばその親しか知りません。親の役割を果たせていない親の子どもたちは、リアルな親自身に希望を見出すことができません。そういう子どもたちは、自分の「親を支える」という役割、いつか親を変えられる可能性、その他、想像力と思考力の限りを駆使して、親とその周辺に「親という希望」を見出そうとするのです。空想? 妄想? 虚構? そうかもしれませんが、なくしたら子どもは生きていけなくなるでしょう。

 虐待のもとにある子どもたちとは異なる意味で、理不尽な運命の真っ只中にいる男性は、山口さんに次のように語ります。

「病気になるとさ、色んなことが見えてくるよね。それにはすごい感謝してるかな。
でもこんな病気にはなったらいかんよ」


 神谷美恵子氏の「私たちではなく、なぜあなたが? あなたは代わってくださったのだ」という詩の一節を、どうしても思い浮かべてしまいます。神谷氏の著書に引用されているハンセン病患者、「天刑病」と言われていた病気を抱えて生きてきた人による「癩は天恵でもあった」という詩の一節も。
 男性の述懐を言い換えれば、「私に当たったので、引き受けることになりました。病苦は病苦ですが、天恵でもありました。だけどあなたは、この病気に当たらないでくださいね」ということになるでしょうか。どう言い換えても、重さや深さは変わらないように思えます。

 そして数日後の山口さんは、青い空、美しい川の流れ、水辺で遊ぶ鳥たちを見ました。澄んだ風を感じました。でも、心は晴れませんでした。

 自分自身の病が前者(引用者注:治る可能性のある病気)であることを手放しで喜ぶことは、もはやできなかった。


 生体肺移植も、受けられて生き延びる機会が出来るからといって、手放しで喜べるものではありません。その肺を持っていた誰かが亡くなったから、その肺を受け取って生きる人に機会が生まれているわけです。

 医学の発展が、彼の病を後者(引用者注:治らず、進行して最後には命を奪う病気)から前者へと変えることを切に望むほかなかった。

 生命の危機は、生きることの尊さやかけがえなさを否応なく認識させます。しかし、生命の危機自体は決して歓迎したいものではありません。不幸や理不尽は減ることが望ましく、減ったら減ったで新しい不幸や理不尽に直面しなくてはならず、日頃から深く考えていれば「いざ」という時の衝撃がより深く重くなり、日頃何も考えていなければ「いざ」という時の奈落感が大きくなるわけです。どう生きることが正解なのか。正解は、誰も知りません。

 膠原病の男性には、自分の人生の明確な理想像がありました。その理想像を、山口さんは次のように描写します。

 彼が、妻と息子と三人で、出来るだけ長く寄り添って歩けるよう、心から願うばかりだった。



山口雄也さんを応援する方法の例

 ご本人やご家族のために何かしたいというお気持ちを抱かれた方は、どうぞご無理ない形で応援をお願いします。ご家族を間接的に支えることも、ご本人への支えになります。
  • ツイッターで「いいね」やメンションによるメッセージを送る
  • ご著書を読んで、Amazonhonto読書メーターなどにレビューを書く
  • noteでご記事を読む・サポート(投げ銭)する・有料記事を購入する
  • 献血をして、献血センターがいかに素敵な場所であるかをSNS等で述べる(山口さんは、治療に大量の輸血を必要としています)
  • 献血できない人は、日赤などによる献血のお願いをSNS等で拡散する
  • 重い病気と闘病する人々やその家族の心境について、信頼おける書籍を読む

本記事を書いて推薦したくなったコンテンツ

 石井光太さんのご著書の中には、厳しい状況と制約の中で、それでも希望を創造しようとする人々の姿が数多く現れます。石井さんは、人間一人一人が心の中に作り上げる希望を「小さな神様」と呼んでいます。




 移植については、一宮茂子さんのご著書『移植と家族』が必読でしょう。一宮さんは、京大病院の臓器移植を取り扱う病棟で、長年にわたって看護師として働いて来られた方です。看護師としての経験から抱いた問題意識を研究へと昇華され、さらに「読ませる」書籍へと展開されたのが本書です。臓器を提供する側にとって、提供される側にとって、臓器移植とは何なのか。本書の対象は家族間の生体肝移植ですが、ここまで深く掘り下げて描き出した書籍は、未だに他に存在しないと思います。





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著書です(2009年-)
「おしゃべりなコンピュータ
 音声合成技術の現在と未来」
(共著 2015.4 丸善出版)


「いちばんやさしいアルゴリズムの本」
 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
あります。

「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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